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続・多賀山日記「ビフカツの味」

by 清水哲男

昔、そういまから五十年以上前、京都府庁前に気楽だったか、喜楽だったかは定かではないが、キラク亭という洋食屋があった。精肉店がその二階でやっていた。小さなテーブルが六つ。なんの飾り気もない小さな店だった。厨房は一階。出来上がった料理をどうやって運び上げていたかは、はっきりと覚えていない。

「ここのビフテキがうまいんや」

父はこの店がお気に入りで、家からはずいぶん遠かったけど路面電車に揺られてよく家族でのぞいた。

父は決まってビフテキとビールを。母は毎回違ったものを。そしてぼくはビフカツを、時間をたっぷりかけて味わった。食事がすんで店を出ると、ぼくと母は家に向かう路面電車に乗り、父は反対方向へ行く電車に乗った。そしてその夜は家に帰ってこないのだ。

家に向かう電車に揺られて、母はいまにも泣きそうな顔をしていた。その頃の父には帰るべき家がもう一軒あったのだ。それが何を意味していたのか、そのころのぼくにはわかるはずもなかった。ぼくにとっては楽しい外食だったが、母にとっては辛い夜のはじまりだったのかもしれない。ぼくはいまもビフカツを食べる度に、母のその表情を思い出す。

父が亡くなる直前のことだ。「ビフテキが食いたい」と言い出したので、家の近くの馴染みの洋食屋に焼いてもらった。

「うまい、うまい」とうれしそうに肉を頬張る父を見て母もうれしそうに笑っていた。

そう言えばと、キラク亭の思い出話をしようとしてやめた。ぼくがしなくても、母は思い出しているはずだ。そうして、いいことも悪いこともみんな思い出だと思っているはずだ。そう思ったのだ。

それからいくつかの夜を数えて父は他界した。

それから三年半が経つ。いまも母とキラク亭の話をすることはない。

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