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続・多賀山日記「故郷は路地の奥底」

by 清水哲男

早朝、小さな路地の空気に身を置く。

山紫水明、雅な都、京都。そんなことを思わせるものは、何もない。

舗装すらされていない狭い砂利道をはさんで、軒を付き合わせ、窮屈そうに並ぶ家。朝からはじまる夫婦喧嘩。漏れ聞こえてくるテレビの音。雑然そのものだ。

だけど、その空気のなんと美しいことか。

「おはようさん」

かけあう言葉のなんと優しいことか。

ここが、ぼくの故郷だ。ぼくは、この空気の中で育ったのだ。

いまなら自然にそう思える。

昭和四十年代のある時期、思春期の頃、ぼくはこの路地が大嫌いだった。息がつまりそうで、嫌で嫌でしかたなかった。友だちの家で、ぼくの家より小さい家など一軒もなかった。ある友だちの家などは、門だけで数倍も大きかった。その時期ぼくは友だちを家に招いたことがなかった。暮らしのありのままを見られるのが恥ずかしかったのだ。

「うちはなんて貧乏なんや。こんなとこ早よ抜け出したい」

そんなことばかり思っていた。二畳二間に六畳一間。小さな走りに井戸の汲み上げポンプ。猫の額ほどの奥庭に離れて立つ便所。そんな七軒長屋が向きあう路地。ぼくにとってその路地は「貧民窟」そのものだった。我が家も含めてだが、社会の下層で必死に生きている人々ばかりだった。いまなら美しいと思えるその風景が、嫌でしかたなかったのだ。

前後のことは忘れてしまったが、こころの奥底にこんなシーンが残っている。

「こんな汚い家、友だちも呼ばれへん」と吐き捨てるぼく。

「なんちゅうこと言うねんこの子は」と怒る母。

「そうか、汚いか……」とうつむく父。

その場がどうなったのかは覚えていない。しかしその数カ月後、うちには大工が入り、少々増築もされて小綺麗になった。奥庭には便所と向きあうように風呂が建てられた。

「どや、ちょっとはましになったか?」と父が苦虫を噛み潰したような顔で言った。「これで友だちも呼べるんやないか」と。だけどぼくが、友だちを家に連れて帰ることはなかった。

そうして高校に入学するとすぐに家を出た。

「通える高校に行くのに下宿なんかせんでええやないか」

そう言って引き止める母を振り切って家を出たのだ。

大学を出、文章を書く仕事をはじめ、結婚して、ようやく両親の路地に戻った。人の名前で文章を書く。あるいは広告の文案を書く。ライターだとか、コピーライターだとか言えば聞こえはいいが、要するに「文屋」だ。売文をする。売れればなんでも書いた。ほめられた仕事じゃないなと自嘲したことは数え切れない。でも、稼げればいいか、と。

母は喜んでくれた。父は何も言わなかった。

しばらくは平穏な暮らしが続いた。

長女が生まれ、次女が生まれ、長男が生まれた。

母は喜んだ。父もそれなりに喜んでいたようだが、ぼくには直接何も言わなかった。

ぼくの仕事は順調だった。いや、順調に見えていただけかもしれない。

世の中はバブル経済の狂乱に踊り狂っていた。ぼくも例外ではなかったのだ。

不釣り合いな家を買い、両親を残して再び路地を出た。

母はさみしがり、悲しがった。父は何も言わなかった。

路地から抜け出すというぼくの夢は現実のものとなりつつあった。

しかし……。一九九〇年三月に大蔵省から出された「土地関連融資の抑制について」という通達により、日本銀行による急激な金融引き締めがはじまった。バブルは崩壊し、同時にぼくの日常も弾けて消えた。

ぼくにはなんの力もなかった。ただ時流に乗っていただけなのだ。力のないぼくには苦境を打開できるはずもなかった。あらゆるものを手放し、ぼくは再び両親のそばに戻った。いや、逃げ帰ったと言ったほうがいいかもしれない。

母は喜んだ。父はやはり何も言わなかった。

ぼくは時流に乗ることをやめた。自分の名前で、自分の書きたいものだけを書く。それが金にならないことはわかっていた。大勢の人の手助けで最初の本を上梓することができた。二冊目、三冊目と続けて出すことができた。だが思うような収入は得られなかった。それでもいいと思った。だが「夢ばかり見てないで現実を見て」それが家族の言い分だった。家族にとってバブルの崩壊は、ぼくの見通しの甘さによるものだった。

ぼくに何も言うべきことはなかった。だが二度と「文屋」に戻るつもりはなかった。

ぼくは両親と家族のそばを離れた。そうして二度と戻ることはなかった。

挙げ句に、父に言わせると「地の果て、文化果つる地」、鹿児島に移ったのだ。以来ぼくは年に一度くらいしか京都に戻らなくなった。両親や子どもたちに会うためではない。仕事や旧い友人に会うためにだ。

二〇一五年三月、父のからだに異変が見つかったという連絡を受け、慌てて路地に戻った。父は八十六歳で余命を限られた。新しい年は迎えられないだろうと。

母はぼくの顔を見てもちろん喜んだ。父は「無理して帰ってこんでもええがな」と言ったが、微かに笑っていた。

それからぼくは足繁く両親のもとに通った。父は日増しに衰えていった。異変が見つかって三カ月目には自分の足で歩けなくなった。父は言った。

「あかんようになったなあ。もう二度と自分の足で歩かれへんやろなあ」

「そんなんわからへんやん」

ぼくはそう言いながらシャッターを切り続けた。そうして一言だけ永い不在を詫びた。

「なかなか帰ってこられんでごめんな」

父は黙って頷いた。

「けど、帰ってきたいうても、なんにもできひんけどな。堪忍な」

「いや、顔見せてくれるだけでも安心できる」

母は離れた場所で泣いていた。

それからのわずかな時間、ぼくは父と母にカメラを向け続けた。父は昔のことを話し続けた。

ぼくの知らない高祖父母のこと。祖父母のこと。家業のこと、そしていままで母にも話さなかったぼくへの思い……。もっと早くに聞いておけばよかったと思った。

八月、父は路地のそばの病院に入院した。翌日、顔を合わせると父はぼくに懇願した。

「家に連れて帰ってくれ。家で、お母ちゃんに看取られて死にたい」

だが父が再び路地の奥の家に戻ることはなかった。

父が亡くなる前日、父の着替えを取りに戻った路地は雨の中にあった。

なにもかもが雨に滲んで見えた。両親は六十数年前、結婚してすぐにこの路地に越してきた。この小さな路地の奥底で、必死になって生きてきたのだ。

ここはこんなに小さな世界だったのか。

ぼくは何に抗ってきたのだろうか。雨の中でぼくと両親の六十年を想った。

ぼくの人生もここからはじまった。この路地が、ぼくと両親のすべてを見てきた。

ここは間違いなく、ぼくの故郷なのだ。

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